2021年8月22日(日)

毎年、終戦の日は靖国神社に参拝しています。
今年は混雑を避けて3日前に訪れたのですが、スムーズに参拝できたので、遊就館にも足を運びました。最後の展示室は分かっていてもハンカチ無しでは展示物を見れません。
死者何人って言われても、読み流してしまうけれど、その1人1人が母や妻といった家族に宛てた遺書を読むと、命の尊さとか重さを改めて考えさせられます。
コロナ禍で毎日の感染者数や死者数などが報道され、通常より死が少し意識される環境下では、自分の死や身近な人の死について考える機会もあるのではないかと思います。
私は子供の頃から、死について考えることが多くありました。寝付きの悪さは生まれ持っての才能の一つなので、眠れない時は死の恐怖、祖父や祖母など身近な存在の死などを想像して悲しくなっていました。祖父母の家に泊まりに行くと、朝夕お仏壇にお線香をあげる習慣があったので、より死を身近に感じて、その得体の知れないものに好奇心があったのだと思います。
小学校の中学年くらいの時に、死についての意識がもの凄く変わる瞬間があって、その時の感覚はよく覚えています。
同級生が「セックスってなんですか?」って先生に聞きに行って、「誰に聞いたの?」ってことになり、私が言っていたとのことで、先生に問い詰められたんです。
確か私は深夜番組か何かで、性に関する語彙はいくつか覚えていて、同級生との会話に使ったら、先生に叱られるわけでもなく、問い詰められ、子供ながらに、「とんねるずがテレビで言ってたんです」なんて返答はしたくないし、なんか面倒くさいな、はぁぁ死んでしまいたいと思った時に、怖いと思っていた死が堪らなく甘美なものに思えてしまい、同時にとても恐ろしいことだとも感じました。
自分がこの場に存在したくないと思う瞬間、死はたまらなく甘い誘惑にもなるということは、その後の経験というより文学作品や映画作品に触れ、さらに強く思うようになりました。
私には、死よりも大切なものがあって、それは自尊心なのだけれども、たまにSMプレイ後に、とても良い顔になっている子がいて、そんな時に「今日は何を失って何を得たの?」と尋ねます。
その時に、彼らが失ったものとして「自尊心」という答えが一番多い気がします。
実生活の中で、自尊心を失ったり、傷つけられることは、とてもとても心が痛いことですが、SMプレイという日常から切り離された世界で自尊心を失うことは、殻を打ち破ったようなことなのでしょう。彼らが殻を破り再生することが出来たのであれば、嬉しい限りです。
今回もまたダラダラと書きましたが、写真の本のジャンケレヴィッチの『死』は石原慎太郎が愛読書として挙げていた本です。
図書館から借りてきて、今から読みます。
今年は慎太郎氏が靖国参拝された気配がなく、心配です。
bySARA女王様